先に答えると:1543年の日本は室町時代後期、戦国期にあたります。鹿児島県の資料では、この年にポルトガル人を乗せた中国船が種子島へ漂着し、火縄式鉄砲が伝わったとされています。重要なのは、ポルトガル人がヨーロッパから日本へ直接やって来たのではなく、中国人や倭寇などが動いていたアジアの海上ネットワークに加わって日本へ到達したことです。同じ1543年、ヨーロッパではコペルニクスとヴェサリウスの著作が出版されました。
日本の種子島火縄銃
日本の種子島火縄銃。写真:PHGCOM / Wikimedia Commons(CC BY-SA 3.0)。1543年に持ち込まれた銃そのものではありません。

1543年には何があった?日本と世界を同じ年で見る

場所1543年前後の出来事
日本・種子島ポルトガル人を乗せた中国船が漂着し、火縄式鉄砲が伝わったとされる。
東アジア海域中国沿岸・東南アジア・日本を結ぶ私貿易や密貿易のネットワークに、ポルトガル商人も入り込んでいた。
ニュルンベルクコペルニクス『天球の回転について』初版が刊行。
バーゼルヴェサリウス『人体の構造について』が刊行。

まず、「ポルトガル船が日本へ来た」と考えると少し違う

鉄砲伝来は、「1543年、ポルトガル人が種子島へ来て鉄砲を伝えた」と説明されることが多い出来事です。

それ自体は大筋で間違いではありません。しかし、船の姿まで想像すると誤解しやすくなります。

鹿児島県は、1543年にポルトガル人を乗せた中国船が種子島へ漂着したと説明しています。九州国立博物館はさらに、鉄砲を伝えたポルトガル人が倭寇の首領・王直の船で種子島へ到来したと解説しています。

つまり、リスボンから出た巨大なポルトガル船がそのまま日本まで航海してきた、という単純な構図ではありません。

アジアの船にヨーロッパ人が乗り、中国沿岸・東南アジア・日本を行き来する海域世界の中で、鉄砲が種子島へ届いたと見る方が実態に近づきます。

ポルトガル人は、すでにアジアの海へ入り込んでいた

ポルトガルは1511年に東南アジアの交易都市マラッカを占領し、その後、中国沿岸でも交易を模索しました。

16世紀前半、中国の公式な海外交易には強い制限がありましたが、沿岸部では中国人商人、海賊・倭寇、地方勢力などによる非公式な交易が活発でした。

九州国立博物館は、16世紀半ばに公的な日明貿易が終息していく一方、西日本の大名や後期倭寇による私貿易が盛んになり、東南アジアへ進出した倭寇が海域交流の主役になったと説明しています。

近年の研究でも、1530年代にはポルトガルの私商人が中国沿岸へ進出し、中国船や多国籍の乗員とともに航海していたことが確認されています。

1543年の種子島は、突然ヨーロッパと日本が一本の線で結ばれた瞬間というより、すでに複雑だったアジアの海上ネットワークに新しい人と技術が混ざった瞬間でした。

日本には、海外商人を引き寄せる「銀」があった

鉄砲伝来の背景を理解するうえで、日本の銀も重要です。

石見銀山では16世紀前半から銀の生産が本格化しました。石見銀山世界遺産センターによると、日本銀は中国との交易へ流れ、やがてマカオを拠点とするポルトガル商人が中国・東南アジア・日本を結ぶ交易で重要な役割を担うようになります。

メトロポリタン美術館の交易年表では、1540年代後半にはポルトガル商人がマラッカ・中国沿岸・日本を結び、中国の生糸と日本銀などを交換する三角交易を発達させたと整理されています。

したがって1543年の漂着を、その後の南蛮貿易から完全に切り離して見ることもできません。

ただし、「銀を買いに来たポルトガル船が1543年に計画的に種子島へ来た」とまで断定する資料はありません。漂着という出来事と、その背景にあった海域交易の拡大は分けて考える必要があります。

種子島時堯は、鉄砲を「見る」だけで終わらせなかった

鹿児島県によると、島主・種子島時堯はポルトガル人が持っていた火縄銃2丁を購入し、家臣に操作法を学ばせ、鍛冶職人に模造を命じました。

銃身そのものを鍛えることはできても、銃身の底を塞ぐねじの加工が難題でした。翌年来島したポルトガル人から技術を学び、国産銃の製作へつながったとされています。

西之表市には、鉄砲の需要増加により島の刀鍛冶が鉄砲鍛冶へ移っていったことを伝える文書も残されています。

ここで重要なのは「外国の完成品を輸入した」だけではないことです。

買う → 分解して理解する → 作れない部分を学ぶ → 国内で再生産するという技術移転が非常に短い時間で起きました。

「娘をポルトガル人に嫁がせて、ねじの技術を教わった」は史実?

鉄砲製作をめぐっては、鍛冶職人・八板金兵衛が娘の若狭をポルトガル人へ嫁がせ、その代わりにねじの技術を教わったという話も伝えられています。

鹿児島県の資料にも、この話は「語り継がれている」ものとして紹介されています。

一方、鉄砲伝来の経緯を詳しく記した『鉄炮記』は、出来事から約60年後の1606年に南浦文之がまとめた記録です。

そのため、このサイトでは伝承を面白い逸話として紹介しても、確認できた事実と同じ強さでは扱いません。

鉄砲は、伝来した瞬間に日本の戦争を変えたわけではない

「鉄砲伝来によって、すぐに日本の戦い方が変わった」とまとめるのも単純化です。

九州国立博物館は、種子島で模造された鉄砲がその後、九州・畿内・東国へ徐々に伝わり、天文年間末から天正初年にかけて近江国友や和泉堺などで大量生産されるようになったと説明しています。

技術が伝わるだけでは、戦場を変えるほどの数にはなりません。製造する職人、火薬・鉛などの調達、使用法、部隊運用までそろって初めて影響が大きくなります。

つまり1543年は「戦争が一日で変わった年」ではなく、その後の数十年を変える技術の入口が開いた年と見る方が適切です。

1543年版コペルニクス『天球の回転について』の表紙
コペルニクス『天球の回転について』1543年版の表紙。Wikimedia Commons(Public domain)

同じ1543年、コペルニクスの本が出版された

種子島に鉄砲が届いたとされる同じ1543年、ヨーロッパではニコラウス・コペルニクスの『天球の回転について』がニュルンベルクで刊行されました。

アメリカ議会図書館は、この著作を地球を含む惑星が太陽の周囲を回る体系を本格的に提示した出版物として紹介しています。

ここで、鉄砲伝来とコペルニクスの出版に直接の因果関係があったわけではありません。

それでも、同じ年に一方では海上交易によって武器と製造技術が移動し、もう一方では印刷によって宇宙についての新しい考えが複製・流通したことは興味深い対照です。

1543年刊ヴェサリウス『人体の構造について』の扉絵
ヴェサリウス『人体の構造について』1543年版の扉絵。公開解剖の場面が描かれています。Wikimedia Commons(Public domain)

人体の見方も、同じ年に更新されていた

1543年には、解剖学者アンドレアス・ヴェサリウスの『人体の構造について』もバーゼルで出版されました。

米国国立医学図書館が所蔵する初版には1543年6月の刊行記録があり、詳細な人体解剖図を備えた著作として知られています。

ヴェサリウスは実際の人体解剖による観察を重視し、古代以来の権威だったガレノスの記述の誤りも指摘しました。

1543年を「鉄砲が日本へ来た年」だけで覚えると、世界の別の場所で天体の配置と人体の構造という、二つの基本的な見方が書物によって問い直されていたことが見えなくなります。

1543年という年を、「何が移動したか」で見る

動いたものどう広がったか
鉄砲アジア海域を航海する船と商人を通じて種子島へ。日本で模造・改良され各地へ広がる。
銀・生糸などの商品中国・東南アジア・日本を結ぶ海上交易の中で交換される。
天文学の知識コペルニクスの著作として印刷され、読者へ複製される。
解剖学の知識ヴェサリウスの詳細な図版を伴う書物として流通する。

同じ1543年でも、これらは一つの事件ではありません。

ただし、船、商人、商品、技術、印刷物が以前より広い距離を移動し、それぞれの土地で新しい使われ方を始める時代だったという共通点があります。

鉄砲伝来は、本当に1543年だった?

ここにも注意点があります。

鹿児島県や西之表市は1543年(天文12年)を鉄砲伝来の年として紹介しています。一方、九州国立博物館は展覧会解説で「1543年(または1542年)」と併記しています。

また、伝来の詳しい経緯を伝える『鉄炮記』が書かれたのは1606年で、出来事から60年以上後です。

そのため、歴史の入口では検索上よく使われ、公的資料でも広く採用される1543年を記事の軸にしつつ、年の比定に異説があることも隠しません。

最初の問いに戻る

鉄砲が種子島へ伝わった1543年、世界では何が起きていたのでしょうか。

日本へ来たポルトガル人は、アジアの海域交易の中で中国船に乗っていました。種子島では鉄砲が購入され、模造と国産化が始まります。

その同じ年、ヨーロッパではコペルニクスが宇宙の見方を、ヴェサリウスが人体の見方を問い直す本を出版していました。

直接つながった出来事ではありません。

それでも1543年を横に並べると、「新しいものが海や紙を通じて移動し、受け取った場所で作り直されていく時代」が見えてきます。

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