先に答えると:1549年(天文18年)の日本は室町時代後期、一般に戦国時代と呼ばれる時期です。ザビエルは8月15日に鹿児島へ到着しました。ただし、1549年は「ヨーロッパ人が初めて日本へ来た年」ではありません。ポルトガル人はすでに1543年ごろ日本へ到達しており、その海上交流の広がりの中で、6年後にザビエルの一行が日本へ来ました。
神戸市立博物館所蔵の17世紀前期の聖フランシスコ・ザビエル像
聖フランシスコ・ザビエル像。筆者不詳、江戸時代・17世紀前期。1549年当時の写生ではなく、後世に日本で描かれた礼拝画です。神戸市立博物館所蔵。画像:Wikimedia Commons(Public domain)

1549年の日本は、室町時代後期・戦国期

1549年の元号は天文18年です。

室町幕府はまだ存在していましたが、各地では大名や地域勢力が争い、幕府の力だけで全国を統一できる状況ではありませんでした。

ザビエルが上陸した薩摩では島津貴久が勢力を持っていました。鹿児島県の資料によると、貴久はザビエルとアンジロウを招き、当初はキリスト教の布教を許可しています。

つまり「キリスト教が日本へ来た」という一文の背景には、全国を一つの政府が管理していたのではなく、地域ごとの権力者との交渉によって活動の可否が変わる戦国期の日本がありました。

ザビエルは、なぜ日本へ来ようと思った?

出発点には一人の日本人がいました。

鹿児島県の公的資料では、その人物をアンジロウ(ヤジロウ)と表記しています。名前の表記にはアンジロー、アンジロウ、ヤジロウなど複数の形が残っており、このサイトでは公的資料にならって「アンジロウ」を基本にします。

アンジロウは鹿児島から海外へ渡り、マラッカでザビエルと出会いました。イエズス会の公式紹介では、ザビエルはアンジロウから、まだキリスト教が知られていない日本とその文化について聞き、日本への関心を強めたとされています。

ここが重要です。ザビエルが地図だけを見て未知の日本を目指したわけではありません。

日本人が海外へ持ち出した日本の情報が、外国人を日本へ向かわせたのです。

鹿児島 → マラッカ → ゴア → マラッカ → 鹿児島

1549年の来日は、ヨーロッパから日本への直行航海ではありません。

ザビエルはすでにインドや東南アジアで活動しており、アンジロウとともにゴアで日本行きの準備を進めました。イエズス会の資料では、1549年4月にゴアを出発し、マラッカを経て、6月24日に日本へ向けて出航、8月15日に鹿児島へ到着したとされています。

日本へ届くまでの人と情報の往復
場所動き
鹿児島アンジロウが生まれ育った土地。日本についての知識の出発点。
マラッカアンジロウとザビエルが出会う。日本の情報がザビエルへ伝わる。
ゴアイエズス会のアジア活動の重要拠点。日本行きの準備を進める。
マラッカ1549年6月24日、日本へ向けて出航。
鹿児島1549年8月15日、ザビエル一行が到着。
フランシスコ・ザビエルのアジアでの航海を示した現代作成の地図
ザビエルのアジアでの航海を整理した現代作成の地図。1549年にはインドからマラッカを経て日本へ向かう経路が示されています。歴史当時の地図ではありません。作図:Nicoco007 / Wikimedia Commons(CC BY-SA 4.0)

この経路を見ると、1549年のキリスト教伝来は「ヨーロッパ→日本」という一本の矢印ではありません。

鹿児島から出た日本人が東南アジアへ渡り、そこで日本の情報を外国人へ伝え、その外国人と一緒にインド洋・南シナ海の航路を通って日本へ戻ってきました。

1543年の鉄砲伝来と同じく、ここでも主役になっているのはすでに存在していたアジア海域の人・船・交易のネットワークです。

アンジロウは「案内人」だけではなかった

アンジロウは、ザビエルを鹿児島まで連れてきただけの人物ではありません。

ザビエルたちは日本語も日本の宗教語彙も十分には知りませんでした。そこでアンジロウは、日本の社会や言葉を説明する仲介者として大きな役割を果たします。

この役割は、単なる通訳より難しいものでした。言葉を置き換えるだけでなく、ヨーロッパの宗教概念を日本語のどの言葉で表すかを決めなければならなかったからです。

「神」をどう訳す?――大日とデウス

初期の日本布教で起きた代表的な問題が、「God」をどう日本語で表すかでした。

イエズス会史の研究では、ザビエルたちは当初、アンジロウの助言を受けて「大日」という仏教語を使いました。しかし「大日」は真言宗で重要な意味を持つ既存の仏教語です。

そのため、キリスト教の神を説明しているつもりでも、日本側には別の宗教概念として受け取られる可能性がありました。ザビエルは後にこの問題に気づき、「デウス」という外来語を使う方向へ切り替えていきます。

これは小さな翻訳ミスではありません。

宗教や思想が国境を越えるとき、意味そのものをどう運ぶかという問題でした。

ここで分けて考える:ザビエルが日本へ来たことと、キリスト教がそのまま日本社会へ「移植」されたことは同じではありません。言葉、既存宗教、地域権力、交易港の動きによって、伝わり方はその都度変わりました。

島津貴久は、なぜ布教を許した?

鹿児島県の資料によると、島津貴久はザビエルとアンジロウを招き、当初は布教を許可しました。

ただし、その許可は固定されたものではありませんでした。ポルトガル船の寄港先が平戸など別の港へ移っていくと、やがて薩摩領内での布教は禁止されます。

宗教と交易を単純に同一視することはできません。それでも当時、外国人宣教師の活動とポルトガル商船の動きが、同じ海上ネットワークの中にあったことは重要です。

ザビエル自身もその後、鹿児島だけにとどまらず、平戸、山口、京都、大分方面へ移動していきました。

同じ1549年、イングランドでは礼拝の言葉を統一していた

日本でザビエルたちが宗教を「どう日本語で伝えるか」に苦労していたころ、遠く離れたイングランドでも宗教と言葉をめぐる大きな制度変更が進んでいました。

英国議会の資料によると、1549年の統一法(Act of Uniformity)は、イングランド国教会でBook of Common Prayer(共通祈祷書)を用いることを定めました。従来のカトリック礼拝から離れ、共通の英語礼拝を制度として広げる動きです。

もちろん、イングランドの宗教改革がザビエルの来日を引き起こしたわけではありません。むしろザビエルはカトリック側の宣教師です。

それでも同じ1549年に、日本では外国の宗教をどう日本語へ訳すか、イングランドでは国内の礼拝をどの言語・形式で統一するかという、まったく別方向の「宗教と言葉」の課題が進んでいました。

1543年から1549年までの6年間で何が変わった?

年日本と外の世界の接続
1543ポルトガル人を乗せた船が種子島へ。鉄砲という物・技術が移動する。
1540年代後半アンジロウが海外へ渡り、マラッカでザビエルと出会う。日本についての情報が外へ移動する。
1549ザビエル一行が鹿児島へ。人・宗教・言葉が日本へ入ってくる。
その後宣教師、商人、日本人信徒らの往来が広がり、日本と海外を結ぶ接点が増えていく。

1543年と1549年は、別々の「○○伝来」として暗記されがちです。

しかし横につなぐと、前者は物と技術、後者は人・宗教・言葉が、同じアジア海域の航路を通じて移動した出来事として見えてきます。

最初の問いに戻る

ザビエルが来日した1549年、日本は何時代だったのでしょうか。

答えは、室町時代後期・戦国期です。

ただし1549年を面白くするのは、時代名だけではありません。

鹿児島のアンジロウが海外へ渡り、日本について語り、その情報を受け取ったザビエルが、ゴアとマラッカを経由して鹿児島へ来ました。到着後には、外国の宗教概念を日本語へ置き換える難しさにも直面します。

1549年は「ザビエルが日本へ来た年」であると同時に、日本から外へ出た情報が、人を連れて日本へ戻ってきた年でもありました。

主な出典

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