先に答えると:1789年の日本は江戸時代です。同年、元号が天明から寛政へ変わり、寛政元年となりました。11代将軍・徳川家斉のもと、老中松平定信が寛政の改革を進めていました。同年には旗本・御家人の借財問題に関わる棄捐令が出され、北方ではクナシリ・メナシの戦いが発生。さらに日本人船頭の大黒屋光太夫は、遠くロシアのイルクーツクで帰国願いを出していました。
1789年のフランス人権宣言を表現した図像
1789年の「人間と市民の権利の宣言」を表現した図像。Jean-Jacques-François Le Barbier作、Musée Carnavalet所蔵。Wikimedia Commons(CC0 / Public domain)

1789年には何があった?日本とフランスを同じ年表で見る

1789年を並べるときは、日付の扱いに注意が必要です。フランス側は当時のグレゴリオ暦の日付、日本側の資料には旧暦の「寛政元年○月○日」が使われています。下の表では、資料に書かれた日付体系を無理に一つへ換算せず、そのまま区別して示します。

時期・資料表記場所・出来事
寛政元年2月9日(旧暦)ロシア・イルクーツク:大黒屋光太夫らが到着。帰国願いを出すが認められず、帰国を求め続ける。
5月5日フランス・ヴェルサイユ:財政・政治危機のなか三部会が開会。
寛政元年5月〜7月(旧暦)クナシリ・メナシ地方:アイヌの蜂起と松前藩による鎮圧。和人との支配・労働関係をめぐる深刻な対立が表面化。
6月17日・20日フランス:第三身分を中心とする議員が国民議会を名乗り、球戯場の誓いへ進む。
7月14日パリ:群衆がバスティーユ牢獄を襲撃。
8月26日フランス:国民議会が「人間と市民の権利の宣言」を採択。
寛政元年9月(旧暦)江戸幕府:旗本・御家人の借財問題に介入する棄捐令を出す。

「1789年=バスティーユ襲撃」だけではない

フランス革命の象徴として、1789年7月14日のバスティーユ襲撃はよく知られています。ただし1789年の変化は、その一日だけで説明できません。

フランス国民議会の公式資料によると、5月5日に三部会が開かれ、6月17日に第三身分を中心とする議員が「国民議会」を名乗り、6月20日には憲法制定まで解散しないと誓う「球戯場の誓い」が行われました。

7月14日のバスティーユ襲撃後、8月4日には封建的権利や特権の廃止が議論され、8月26日には「人間と市民の権利の宣言」が採択されます。

つまり1789年のフランスでは、誰が政治を担うのか、権利とは何か、身分や特権をどう扱うのかという国家の基本ルールそのものが揺さぶられていました。

同じ1789年、日本は天明から寛政へ

日本では1789年に元号が天明から寛政へ変わりました。国立国会図書館の「日本の暦」でも、1789年に天明9年から寛政元年へ移ることを確認できます。

将軍は11代徳川家斉。幕政の中心では松平定信が老中として改革を進めていました。

定信は1787年に老中となり、幕政の立て直しに着手します。国立公文書館の年表も、寛政の改革の開始を1787年として整理しています。

したがって、フランス革命が始まった1789年の日本は、ちょうど寛政の改革が進行していた時期でした。

松平定信の自画像
松平定信の自画像。天明7年(1787)制作とされる。Wikimedia Commons(Public domain)

1789年、幕府は武士の借金問題にも介入した

寛政元年には、寛政の改革を象徴する政策の一つである棄捐令が出されました。

国立公文書館が紹介する札差の業務記録『業要集』にも、寛政元年(1789)に棄捐令が出されたことが記されています。

札差は、幕府から米で俸禄を受け取る旗本・御家人の米の受け取りや換金を代行し、金融にも関わった業者です。棄捐令は、こうした札差と旗本・御家人の間に積み上がった借財問題へ幕府が介入する政策でした。

フランスでは特権や代表制、憲法をめぐる政治秩序が大きく組み替えられ、日本では幕府が既存の身分秩序を前提に、その内部の財政・生活問題を立て直そうとしていました。

どちらも「改革」と呼べる変化ですが、目指した制度も手段も結果も同じではありません。同じ年だからといって、二つを同じ種類の変革として扱うのは適切ではありません。

幕府は同じ年、家の系譜を集める大事業にも着手した

1789年は、幕府が大名・旗本諸家の系譜を整理する事業へ動き始めた年でもあります。

国立公文書館によると、松平定信が老中であった寛政元年、幕府は『藩翰譜』続編の編纂に着手し、大名・旗本諸家へ系譜類の提出を命じました。後に『寛政重修諸家譜』へつながる大規模な編纂事業です。

これはフランスで身分・特権のあり方が問い直されていたのと同じ年、日本の幕府では諸家の由緒と系譜を整理し、統治秩序を記録する仕事が進められていたことを示します。

ここにも「同じ1789年でも、国家が秩序を組み直す方向は大きく違った」という対照が見えます。

そのころ、日本人の大黒屋光太夫はロシアにいた

1789年の日本を江戸だけで見ると、もう一つ重要な動きを見落とします。

伊勢国白子の船頭・大黒屋光太夫は、1782年に神昌丸で江戸へ向かう途中に遭難し、長い漂流の末にロシア領へ流れ着きました。

国立公文書館の『北槎聞略』紹介によると、光太夫らは1787年にカムチャッカへ到着し、寛政元年(1789)2月9日にイルクーツクへ着きました。

そこで光太夫たちは帰国願いを提出します。しかし総督府からはロシアに留まり仕官するよう求められ、帰国は認められませんでした。それでも光太夫は帰国を諦めませんでした。

1791年にはペテルブルクへ向かい、エカテリーナ2世に謁見。最終的に帰国が認められ、1792年、ロシア使節ラクスマンとともに日本へ戻ります。

帰国後の大黒屋光太夫と磯吉を描いた記録
1792年に帰国した大黒屋光太夫と磯吉を描いた記録。『吹上秘書漂民御覧之記』より。1789年当時の姿を描いたものではありません。Wikimedia Commons(Public domain)

「鎖国中だから海外との接触がなかった」わけではない

光太夫の体験は、江戸時代の対外関係を「鎖国していたから、日本人は海外と無関係だった」と単純化できないことを示します。

光太夫は政策によって自由に海外旅行をした人物ではありません。遭難と漂流の結果、アリューシャン列島やカムチャッカを経てロシア内陸部へ移動しました。

しかしその経験は、帰国後に幕府医師の桂川甫周によって聞き取られ、『北槎聞略』としてロシアの地理・政治・社会・物産などを伝える重要な記録になりました。

1789年の時点ではまだ帰国できていませんが、フランスで革命が進んでいた同じ年、日本人がユーラシア大陸の奥深くでロシア社会を経験していたことになります。

同じ1789年、クナシリ・メナシでも大きな衝突が起きた

さらに1789年には、現在の国後島と北海道東部のメナシ地方で、アイヌと和人の関係をめぐる大きな衝突が起きています。

北海道デジタルミュージアムは、18世紀に和人の進出と交易が進むなか、過酷な漁場労働によってアイヌの貧窮化が進み、1789年にクナシリ・メナシのアイヌが蜂起したと説明しています。

根室市の資料では、蜂起後に37人が処刑された経緯も詳しく紹介されています。

この出来事は、1789年の「日本」を江戸幕府と松平定信だけで代表させてしまう危うさを教えてくれます。列島北方では、和人による交易・労働支配とアイヌ社会の関係が深刻な緊張を生んでいました。

フランス革命と寛政の改革に、直接の関係はあった?

1789年にフランスで起きた革命と、松平定信が進めた寛政の改革に直接の因果関係があったとみる根拠はありません。

大黒屋光太夫も同じ年にロシアへいましたが、フランス革命の当事者だったわけではありません。

このページで比べたいのは、「フランス革命が日本へ影響した」という話ではなく、同じ1789年に、異なる地域がそれぞれの政治・社会問題へどう向き合っていたかです。

フランスでは代表制・権利・特権のあり方が急速に再編され、日本では幕府が既存秩序の維持を前提に財政・武士社会・統治の立て直しを進めていました。その一方、北方ではアイヌと和人の関係が衝突し、日本人漂流民はロシアで帰国を求めていました。

1789年の日本を一言で表すなら

「フランス革命が始まったころ、日本は何をしていた?」という問いに一文で答えるなら、日本は江戸時代で、1789年に天明から寛政へ改元され、松平定信による寛政の改革の最中だった、となります。

ただし、それだけでは1789年の日本を十分に説明できません。

江戸では幕政改革。北方ではクナシリ・メナシの衝突。ロシアでは大黒屋光太夫が帰国を求めていました。

同じ年を横に並べると、「日本史」と「世界史」が別々に進んでいたのではなく、それぞれ異なる問題を抱えながら同じ時間の中に存在していたことが見えてきます。

主な出典

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