先に答えると:1914年は大正3年です。日本では1月12日に桜島の大正大噴火、4月16日に第2次大隈重信内閣成立、8月23日にドイツへの宣戦布告、11月7日に青島のドイツ守備隊降伏が続きました。第一次世界大戦は「ヨーロッパだけの戦争」ではなく、日本も1914年から実際に参戦しています。
1914年の桜島大正噴火を記録した写真
1914年の桜島大正噴火を記録した写真。九州鐵道管理局『桜島大噴火記』所収。国立国会図書館所蔵資料をもとにした画像です。Wikimedia Commons(Public domain)

1914年には何があった?日本と世界を同じ年表で見る

日付場所・出来事
1914年1月12日鹿児島:桜島の大正大噴火が始まる。大量の噴石・火山灰・溶岩に加え、マグニチュード7の地震も発生。
1914年4月16日日本:第2次大隈重信内閣が成立。
1914年6月28日サラエボ:オーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント夫妻が暗殺される。
1914年7月28日ヨーロッパ:オーストリア=ハンガリーがセルビアへ宣戦。第一次世界大戦が始まる。
1914年8月4日イギリス:ドイツへ宣戦布告。
1914年8月15日日本:ドイツへ最後通牒を送り、膠州湾租借地などをめぐる要求を示す。
1914年8月23日日本:ドイツへ宣戦布告し、第一次世界大戦へ正式に参戦。
1914年8月27日山東半島:日本海軍が膠州湾を封鎖。9月には陸軍第18師団が山東半島へ上陸。
1914年10月ミクロネシア:日本海軍がドイツ領のマーシャル・カロリン・マリアナ諸島などを占領。
1914年11月7日青島:ドイツ守備隊が降伏。日英部隊による青島の戦いが終わる。

1914年の日本は大正3年

1914年は大正3年です。明治時代が終わってからまだ2年ほどで、政治も社会も明治から大正へ移る途中にありました。

国立国会図書館の「史料にみる日本の近代」では、1914年3月に山本権兵衛内閣が退陣し、4月16日に第2次大隈重信内閣が成立した流れが整理されています。

大隈内閣が発足して約3か月後、ヨーロッパで第一次世界大戦が始まりました。日本が参戦を決めるのは、そのさらに約1か月後です。

そのため1914年の日本を理解するには、国内政治だけでも、ヨーロッパ戦争だけでも足りません。国内の災害・政権交代・外交・軍事行動が同じ一年に重なっていたことを見る必要があります。

年の始まりには、桜島の大正大噴火が起きた

1914年1月12日、桜島で大規模噴火が始まりました。

気象庁はこれを「大正大噴火」とし、南岳の西・東山腹で大規模なマグマ噴火が発生したと記録しています。鹿児島市によると、噴煙は約18,000メートルまで達し、大量の軽石や火山灰が降り、マグニチュード7の地震も起きました。

溶岩は桜島と大隅半島の間にあった海峡を埋め、桜島は島から半島と陸続きの地形へ変わりました。鹿児島市は死者・行方不明者58人としています。

「1914年」という数字から第一次世界大戦だけを思い浮かべると、この日本国内の大災害が見えなくなります。日本では世界大戦が始まる半年以上前から、大きな出来事が起きていました。

ヨーロッパの戦争に、なぜ日本が参戦した?

第一次世界大戦は、1914年6月28日のサラエボ事件をきっかけに危機が拡大し、7月28日にオーストリア=ハンガリーがセルビアへ宣戦したことで始まりました。

8月4日にはイギリスもドイツへ宣戦します。

日本政府は、日英同盟を根拠の一つとして参戦へ進みました。ただし「同盟があったので自動的に参戦した」とだけ説明すると単純すぎます。

外務省外交史料館の資料によると、開戦時にイギリス側が日本へ求めたのは、当初は中国海域でドイツ艦艇から英国商船を守るための海軍協力でした。一方、日本の加藤高明外相はその機会を利用し、より本格的な参戦へ政策を進めました。

8月15日、日本はドイツに最後通牒を出し、回答がなかったため8月23日に宣戦布告します。

ここがポイント:日本の第一次世界大戦参戦は、「ヨーロッパで戦争が起きたので遠くから支援した」という話ではありません。東アジアと太平洋にあったドイツの拠点・権益をめぐり、日本自身が軍事行動を行いました。

主戦場の一つは、中国の青島だった

日本軍が攻撃した代表的な場所が、中国・山東半島の青島(当時の表記では青島・チンタオ)です。

青島周辺の膠州湾は、19世紀末からドイツが租借し、東アジアの海軍・交易拠点として整備していました。アジア歴史資料センターも、青島がドイツの極東拠点として発展していたことを説明しています。

日本海軍は8月27日に膠州湾を封鎖し、9月には陸軍第18師団が山東半島へ上陸しました。イギリス軍と英領インド軍の部隊も加わっています。

1914年の青島で撮影された日本兵・イギリス兵・インド兵
1914年の青島で撮影された日本兵、イギリス兵、英領インド軍兵士。青島攻略が日本単独ではなく日英共同作戦だったことが分かります。National Army Museum所蔵資料 / Wikimedia Commons(Public domain / Crown copyright expired)

ドイツ守備隊は約2か月抵抗し、11月7日に降伏しました。

ここで忘れてはいけないのは、戦場が中国領内にあったことです。日本とドイツの戦争であっても、その軍事行動は中国の山東半島で行われました。

さらに日本は、翌1915年に中国へ「二十一か条要求」を提示します。青島と山東で得たドイツ権益をめぐる問題は、第一次世界大戦中の日中関係にもつながっていきました。

日本は太平洋のドイツ領にも進出した

1914年の日本の軍事行動は青島だけではありません。

アジア歴史資料センターの年表では、1914年10月に日本がドイツ領のマーシャル・カロリン・マリアナ諸島など、赤道以北のミクロネシアの島々を占領したことが示されています。

12月28日には臨時南洋群島防備隊が置かれ、軍政が始まりました。

この占領は戦後の国際秩序にもつながります。のちに国際連盟の委任統治のもとで、日本はこれらの地域を統治することになります。

つまり1914年の参戦は、短期間の戦闘だけで終わらず、その後の日本と太平洋地域の関係を長く変える出発点にもなりました。

青島のドイツ兵捕虜は、日本各地へ送られた

青島で捕虜となったドイツ・オーストリア=ハンガリー側の軍人は、日本国内の収容所へ送られました。

アジア歴史資料センターによると、1914年末までに東京、静岡、大分、松山、丸亀、徳島、久留米、熊本、大阪、名古屋、福岡など各地に12の捕虜収容所が設けられました。

これを見ると、第一次世界大戦は海外の戦場だけで完結していません。戦争の結果として、日本国内の複数都市にも捕虜と戦時行政が直接入ってきたのです。

後に捕虜収容所の再編が進み、板東俘虜収容所などへつながっていきますが、それは1914年より後の話です。

「1914年の日本」を三つの距離で見る

距離1914年に起きたこと
国内桜島大正噴火、第2次大隈内閣成立。災害と政治の転換が起きる。
東アジア日本がドイツへ宣戦し、中国・山東半島の青島を日英部隊が攻略。
太平洋日本海軍がドイツ領ミクロネシアの島々を占領し、年末から軍政へ。
ヨーロッパサラエボ事件から列強の宣戦が連鎖し、第一次世界大戦が始まる。

1914年は「日本と世界」が同じ事件の中に入った年

1492年や1789年の記事では、日本と世界の出来事に直接の因果関係がない部分も多くあります。

1914年は性格が違います。

ヨーロッパで始まった戦争が日英同盟と東アジアの国際関係を通じて日本の外交判断につながり、日本軍が青島と太平洋へ出動しました。

つまりこの年は、「同じころに別々のことが起きていた」という比較だけではなく、世界史の出来事の中に日本が直接参加した年として見ることができます。

一方で、同じ1914年1月には桜島の大噴火も起きています。世界大戦だけを見ても、国内史だけを見ても、1914年という一年の姿は十分には見えてきません。

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1914年、日本では何が起きていたのでしょうか。

大正3年の日本では、年初に桜島の大正大噴火が起き、春には第2次大隈内閣が成立しました。そして夏に第一次世界大戦が始まると、日本は8月23日にドイツへ宣戦し、青島と太平洋のドイツ領へ軍を進めました。

1914年は、日本史と世界史を並べるだけでなく、両者が軍事・外交の同じ出来事として直接つながる年です。

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主な出典