先に答えると:1918年は大正7年です。日本では8月にシベリア出兵が決まり、その直後に米騒動が全国へ広がりました。9月29日には原敬内閣が成立し、秋にはスペイン風邪の第1回流行が拡大。11月11日、ヨーロッパではドイツとの休戦が発効し、第一次世界大戦の主要な戦闘が止まりました。正式な講和条約は翌1919年です。
1918年の米騒動が全国へ波及したことを報じる高岡新報の記事
1918年8月13日『高岡新報』。米騒動が全国へ波及し、軍隊まで出動したことを報じる記事です。Wikimedia Commons(Public domain)

1918年には何があった?日本と世界を同じ年表で見る

時期場所・出来事
1918年1月8日アメリカ:ウィルソン大統領が「十四か条」を議会で提示。戦後秩序の構想を示す。
1918年8月2日日本:寺内正毅内閣がシベリア出兵を宣言。
1918年8月富山から全国:米価高騰への抗議が広がり、米騒動へ。警察だけでなく軍隊も鎮圧に出動する地域が現れる。
1918年9月21日日本:寺内内閣が総辞職。
1918年9月29日日本:原敬内閣が成立。初の本格的政党内閣と評される。
1918年秋日本:流行性感冒、いわゆる「スペイン風邪」の第1回流行が拡大。11月に患者数・死亡者数が大きなピークを迎える。
1918年11月11日フランス:連合国とドイツの休戦が発効し、西部戦線の戦闘が停止。

1918年の日本は大正7年

1918年は大正7年です。第一次世界大戦が始まった1914年から4年がたち、日本は大戦景気を経験していました。

輸出の増加で企業や産業が成長する一方、物価も上昇しました。国立公文書館は、第一次世界大戦中の輸出激増に伴い物価、とくに米価が高騰したと説明しています。

つまり1918年の日本は、「戦争で景気が良かった」という一言では説明できません。

企業や産業が伸びても、生活必需品の価格上昇が家計を圧迫する。その矛盾が夏の米騒動で表面化しました。

シベリア出兵と米騒動は、どうつながっていた?

1917年のロシア革命後、ロシアでは内戦と政治的混乱が続いていました。

外務省外交史料館によると、1918年8月、東部シベリアで孤立したチェコスロバキア軍を救援することなどを目的として、日本やアメリカを中心とする連合国がシベリアへ派兵します。

日本では8月2日に出兵方針が示されました。

この動きは米価にも影響しました。国立公文書館は、シベリア出兵の方針が固まったことを背景に投機目的の米の買い占めが起こり、米価が急騰したと説明しています。

ただし、米騒動を「シベリア出兵だけが原因」と考えるのは正確ではありません。

すでに大戦期の物価上昇が続いており、そこへ出兵をめぐる思惑や買い占めが重なりました。家計負担の蓄積の上に、米価の急騰が加わったと見る必要があります。

米騒動は富山から全国へ広がった

1918年夏、富山県の沿岸部で米の県外移出を止めることや廉売を求める動きが起こり、新聞報道を通じて全国へ広がりました。

国立国会図書館の年表では、8月3日に富山県中新川郡西水橋町で米騒動が発生し、その後全国へ波及したと整理されています。

国立公文書館は、富山県の漁民・主婦などが行動に出たこと、騒動が全国へ急速に広がり、警察だけでなく軍隊まで出動して鎮圧にあたったことを紹介しています。

米騒動は単なる「米が高かったので起きた暴動」ではありません。

戦時経済の利益と生活者の負担が同じ社会の中で大きくずれていたことを示す出来事でした。

米騒動のあと、原敬内閣が成立した

米騒動は政治にも大きな影響を与えました。

9月21日に寺内正毅内閣が総辞職し、9月29日に原敬内閣が成立します。

国立国会図書館は、原内閣について、外務・陸軍・海軍大臣を除く閣僚が政友会員で組織され、初の本格的政党内閣と評されたと説明しています。

原自身も爵位を持たない最初の首相だったため「平民宰相」と呼ばれました。

1918年を政治史から見ると、米価への不満が全国規模の社会運動となり、その直後に政権交代が起きた年でもあります。

原敬自身も「スペイン風邪」にかかった

原敬が首相になって約1か月後、日本では流行性感冒が広がっていました。

総務省統計研究研修所が紹介する『原敬日記』では、1918年10月、原自身が発熱し、その後「近来各地に伝播せし流行感冒(俗に西班牙風と云ふ)」だったと記しています。

「スペイン風邪」は当時の日本でも、政治の中心から一般家庭まで広く影響する感染症になっていました。

この流行は1918年だけでは終わりません。日本では1918年から1921年にかけて複数回の流行が続きました。

スペイン風邪の被害は、数字の読み方に注意が必要

スペイン風邪の被害については、資料によって死亡者数が異なります。

総務省統計研究研修所が整理した内務省衛生局『流行性感冒』では、第1回流行を1918年8月から1919年7月とし、患者数約2,117万人、死亡者数約25万7千人としています。

一方、「人口動態統計」で同じ期間に「流行性感冒」と分類された死亡者は約10万3千人です。

差が大きい理由の一つとして、肺炎や気管支肺炎など、直接の死因が別の呼吸器疾患として分類されたケースがあった可能性が指摘されています。

数字を一つに決めつけない:「スペイン風邪で日本では○万人死亡」と書くときは、どの統計を使った数字なのか確認が必要です。この記事では、内務省衛生局と人口動態統計の集計方法が異なることを分けて扱います。

第一次世界大戦は11月11日に「休戦」した

1918年11月11日、連合国とドイツの休戦が発効し、西部戦線の戦闘が停止しました。

「1918年に第一次世界大戦が終わった」と一般に言われるのはこのためです。

ただし、法的な意味で講和が完成したのは翌1919年です。ドイツとのヴェルサイユ条約は1919年6月28日に調印されました。

したがって1918年11月11日は、戦争の主要な戦闘が休戦によって止まった日と表現するのが正確です。

世界大戦が休戦しても、日本のシベリア出兵は終わらなかった

ここが1918年を理解する上で重要です。

第一次世界大戦の西部戦線では11月に戦闘が止まりましたが、日本軍のシベリア駐留は続きました。

外務省外交史料館によると、他国が次々と撤兵する中、日本は1922年10月までシベリアでの駐兵を継続しました。

つまり「第一次世界大戦が終わった=日本の海外派兵も終わった」ではありません。

欧州の大戦終結と、ロシア革命後の東アジア・シベリア情勢は別の時間軸で続いていたのです。

1914年と1918年を比べると、日本の位置が変わって見える

年日本と世界
1914年日本がドイツへ宣戦し、青島やドイツ領ミクロネシアへ軍を進める。世界大戦へ「参戦する側」の日本。
1918年大戦終結が近づく一方、シベリア出兵を開始。国内では米騒動、政権交代、スペイン風邪が重なる。

1914年だけを見ると、日本は第一次世界大戦へ参戦して海外へ軍を進めた国として見えます。

1918年まで追うと、その戦争が国内経済や物価に影響し、さらにロシア革命後のシベリア情勢へ軍事行動が続いていく姿が見えてきます。

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1918年、日本では何が起きていたのでしょうか。

夏にはシベリア出兵と米騒動、9月には原敬内閣成立、秋にはスペイン風邪の大流行、11月には第一次世界大戦の休戦がありました。

これらはすべて別々の出来事に見えます。

しかし一年の流れで見ると、戦争による経済変化、ロシア革命後の国際情勢、生活物価への不満、政権交代、世界的な感染症が同じ社会の中で重なっています。

1918年は、世界大戦の終わりが見え始める一方で、日本国内では新しい政治・社会問題が一気に表面化した年でした。

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主な出典