先に答えると:1620年の日本は江戸時代初期、元和6年です。2代将軍・徳川秀忠の時代で、同年8月には支倉常長が7年の海外使節から日本へ帰国しました。また、日本で20年を過ごしたイギリス人ウィリアム・アダムズ(三浦按針)がこの年に平戸で亡くなっています。その数か月後、大西洋ではメイフラワー号が北米へ渡りました。
メイフラワー号を描いた19世紀の絵画
メイフラワー号を描いたWilliam Halsallの1882年の絵画。1620年当時に描かれた図ではなく、後世の歴史画です。Wikimedia Commons(Public domain)

1620年には何があった?日本と大西洋を同じ年表で見る

時期場所・出来事
5月日本・平戸:ウィリアム・アダムズ(三浦按針)が死去。
5月日本:徳川秀忠の娘・和子が御水尾天皇への入内のため江戸を出発。
8月日本:支倉常長が慶長遣欧使節の旅から帰国。1613年の出発から約7年。
9月イングランド:メイフラワー号が北米へ向けて出航。
11月北米・ケープコッド:メイフラワー号が到達。船上で後に「メイフラワー誓約」と呼ばれる合意が結ばれる。

この5つの出来事が、すべて一本の因果関係でつながっていたわけではありません。重要なのは、日本人が太平洋と大西洋を越えた旅から帰り、イギリス人が日本で生涯を終え、別のイングランド船が大西洋を横断していたことが同じ1620年に重なっていた点です。

1620年の日本は江戸時代初期、元和6年

国立歴史民俗博物館の年代データでは、1620年は元和6年、江戸時代に位置づけられています。

徳川家康は1616年に亡くなっており、1620年は2代将軍・徳川秀忠の時代です。江戸幕府の仕組みが整えられていく一方、日本と海外との往来がまだ活発に見える時期でもありました。

国立公文書館に残る秀忠の事績録には、元和6年5月、秀忠の娘・和子が御水尾天皇のもとへ入内するため江戸を出たことも記されています。国内では幕府と朝廷との関係が組み直され、国外では日本人やヨーロッパ人が長距離を往来していました。

同じ1620年、支倉常長が7年の旅から帰国した

支倉常長は、仙台藩主・伊達政宗が派遣した慶長遣欧使節の中心人物です。

宮城県によると、一行は1613年に月の浦を出帆し、太平洋を横断してメキシコへ渡り、さらにスペインとローマを訪れました。帰路は再びメキシコを経てルソンへ寄港し、1620年8月に帰国しています。

出発から帰国まで約7年。単純な「日本からヨーロッパへの直行」ではありません。太平洋航路、メキシコを横断する陸路、大西洋航路、そして帰路のルソンを組み合わせた長大な移動でした。

UNESCOの「世界の記憶」関連資料も、慶長遣欧使節を17世紀初頭の東西交流を示す記録として位置づけ、旅が当時のマニラ・ガレオンを含む海上交通網に依存していたことを説明しています。

1615年にヨーロッパで制作された支倉常長の肖像
1615年、ヨーロッパで制作された支倉常長の肖像。Raphaël Sadeler IIによる版画。Wikimedia Commons(Public domain)

帰国した支倉常長を待っていた日本は、出発時と同じではなかった

支倉常長の旅を「日本人がヨーロッパへ行った」という成功談だけで終えると、重要な部分を落としてしまいます。

宮城県の文化財解説によると、一行がヨーロッパに滞在している間に幕府はキリスト教を禁止しており、通商や宣教師招聘という使節の目的について十分な成果を得ることはできませんでした。

つまり常長は、出発した1613年と政治・宗教環境が変わった日本へ戻ってきたことになります。

現在、常長が持ち帰ったローマ市民権証書や肖像画などは仙台市博物館に伝わり、慶長遣欧使節関係資料として国宝に指定されています。

同じ年、日本で一人のイギリス人が生涯を終えた

支倉常長が帰国する少し前、日本ではウィリアム・アダムズが亡くなっています。日本名で三浦按針と呼ばれた人物です。

アダムズは1600年、オランダ船リーフデ号で豊後へ到着しました。横須賀市の解説によると、航海術・造船術・天文学や国際情勢の知識を評価され、徳川家康の外交顧問として活動しました。

のちに三浦郡逸見村に領地を与えられ、平戸ではオランダやイギリスの商館に関わる活動も行い、1620年に平戸で亡くなりました。

ここには興味深い対照があります。日本人の支倉常長がヨーロッパから日本へ戻った年に、イギリスから日本へ来て20年を過ごしたアダムズが日本で生涯を終えたのです。

その数か月後、メイフラワー号が大西洋を渡った

同じ1620年、イングランドではメイフラワー号が北米へ向かいました。

米国国立公園局(NPS)は、船が1620年9月6日に出航し、11月にケープコッドへ到達したと説明しています。船内には100人余りの乗客がいて、大西洋横断は荒天の中で続きました。

ここで、「メイフラワー号には宗教的迫害から逃れたピルグリムだけが乗っていた」と単純化するのも正確ではありません。NPSは、分離派の教会員が自分たちを「Saints」、それ以外の乗客を「Strangers」と呼んでいたことを紹介しています。乗客全員が同じ背景・目的を持つ集団だったわけではありません。

到着した場所は「誰もいない新天地」ではなかった

メイフラワー号の物語では、しばしばヨーロッパ側の移住者だけが主語になります。しかし、彼らが到達した土地には、その以前から先住民社会がありました。

米国国立公園局は、17世紀初頭のケープコッド一帯をワンパノアグの人々が利用・居住していたと説明しています。現在のプリマス周辺のPatuxetも、ヨーロッパ人到来以前から続くワンパノアグの共同体でした。

Pilgrim Hall Museumによると、Patuxetは長く耕作・居住されていましたが、メイフラワー号到着前の疫病によって大きな被害を受けていました。

したがって、このページでは「未開の土地を発見した」「誰もいない土地を開拓した」という説明はしません。1620年は、異なる社会が初めて存在し始めた年ではなく、すでに存在していた社会の上に新たな移住者が到来した年として扱います。

メイフラワー誓約は、なぜ船の上で結ばれたのか

メイフラワー号の乗客たちは、本来許可されていた入植区域とは異なるケープコッドに到達しました。

アメリカ議会図書館は、そのため船上の成人男性たちが共同体を運営するための「combination(合意)」を結び、のちにメイフラワー誓約と呼ばれるようになったと説明しています。

重要なのは、後世の民主主義をそのまま1620年へ投影しないことです。議会図書館も、後世には自治・民主政治の先駆として評価される一方、当日の直接的な目的は新しい入植地で共同体を維持するための、より具体的な取り決めだったと説明しています。

資料によって「11月11日」と「11月21日」が出てくるのはなぜ?

1620年のメイフラワー号を調べると、同じ出来事の日付が資料によってずれて見えることがあります。

アメリカ議会図書館は、メイフラワー誓約について「1620年11月21日(11月11日 Old Style)」と説明しています。当時のイングランドで使われていた暦と、現在一般的なグレゴリオ暦への換算による違いです。

このページの年表では、NPSなど英語圏の歴史資料で使われる当時の日付表記を基本とし、異なる日付が併記される理由も示します。年だけでなく、暦そのものが地域によって違った時代だったことにも注意が必要です。

3つの移動を並べると、1620年の世界が違って見える

人物・船1620年までの移動この年
支倉常長日本 → 太平洋 → メキシコ → スペイン・ローマ → ルソン → 日本約7年の旅から帰国
ウィリアム・アダムズイングランド → 大西洋・南米沖 → 太平洋 → 日本日本滞在20年で平戸にて死去
メイフラワー号イングランド → 大西洋 → ケープコッド北米へ到達

3つは同じ航路ではありません。支倉常長の使節、アダムズが関わったヨーロッパとアジアの交易、メイフラワー号による大西洋横断は、それぞれ目的も政治的背景も異なります。

今回確認した資料から、メイフラワー号の航海と支倉常長、あるいはメイフラワー号とアダムズに直接の関係があったとは言えません。

それでも同じ年に並べる意味があります。17世紀初頭には、外交、交易、宗教、移住という異なる目的で、人が海を越えて長距離を移動する複数のネットワークが同時に動いていたことが見えるからです。

最初の問いに戻る

メイフラワー号が北米へ渡った1620年、日本では何が起きていたのでしょうか。

日本は江戸時代初期、元和6年。徳川秀忠が将軍を務めていました。

同じ年、支倉常長は日本から太平洋・大西洋を越えた約7年の旅を終えて帰国し、イギリス人ウィリアム・アダムズは日本で20年を過ごした末、平戸で亡くなりました。

そして大西洋の向こうでは、メイフラワー号が北米へ到達しました。

1620年を「アメリカ史の年」「日本史の年」と分けずに見ると、世界の各地が同じ方法でつながっていたのではなく、異なる海上交通の網が同時に広がっていた時代だったことが分かります。

主な出典