1868年には何があった?日本と世界を同じ年表で見る
この年表は、出来事の順番を追いやすいように西暦(現在の太陽暦)を基準に統一しています。当時の日本で使われていた旧暦の日付は、日本側の出来事だけ補足として小さく併記します。
| 時期 | 場所・出来事 |
|---|---|
| 1868年1月27日 旧暦:1月3日 | 京都周辺:鳥羽・伏見の戦い。新政府軍と旧幕府軍の戦闘から戊辰戦争が始まる。 |
| 1868年2月 旧暦:1月 | 新政府:諸外国へ王政復古と、天皇が外交主権を掌握したことを告げる。 |
| 1868年4月6日 旧暦:3月14日 | 京都:五箇条の御誓文が発せられ、新政府の基本方針が示される。 |
| 1868年5月3日 旧暦:4月11日 | 江戸:江戸城が新政府へ明け渡される。 |
| 1868年5月22日 旧暦:閏4月1日 | 大坂:英国公使パークスが明治天皇へ信任状を奉呈。英国が新政府を正統政府として扱う重要な節目となる。 |
| 1868年7月9日 | アメリカ:合衆国憲法第14修正が批准され、市民権・適正手続・法の平等保護が憲法に組み込まれる。 |
| 1868年9月3日 旧暦:7月17日 | 日本:「江戸を東京と称す」との詔書。東京府も設置される。 |
| 1868年9月18日 | スペイン:カディスで蜂起が始まり、「栄光革命」へ。女王イサベル2世は国外へ去る。 |
| 1868年10月23日 旧暦:9月8日 | 日本:明治と改元し、一世一元の制を定める。 |
| 1868年11月26日 旧暦:10月13日 | 東京:明治天皇が江戸城西の丸へ到着。江戸城は行幸中の皇居とされ「東京城」と改称される。 |
「明治維新」は1868年の一日ではない
「明治維新」という言葉から、1868年に政権が一度に入れ替わったような印象を持つかもしれません。しかし実際には、政治体制の転換は複数年にまたがっています。
国立公文書館の年表では、1867年10月に徳川慶喜が大政奉還を申し出、12月に王政復古が宣言されます。その翌1868年1月に鳥羽・伏見の戦いが起き、戊辰戦争へ入りました。
しかも戦争は1868年で終わりません。国立公文書館は、戊辰戦争を鳥羽・伏見から1869年の箱館五稜郭陥落まで約一年半続いた戦争として整理しています。
つまり1868年は、旧幕府が消えた後の完成した新国家の年ではなく、新政府が戦いながら統治の仕組みを作っていた年です。
戦争の最中に、新政府は外交も始めていた
1868年の重要な特徴は、内戦と外交が別々に進んだのではなく、同時進行していたことです。
外務省外交史料館によると、新政府は1868年2月(旧暦1月)、諸外国に対して王政復古と、天皇が外交主権を掌握したことを告げました。そして翌月には、イギリス・フランス・オランダの各国公使が天皇へ謁見することが布告されました。
これは、新政府が国内で軍事的な勝敗を争う一方、国外に対しても「誰が日本を代表する政府なのか」を示す必要があったことを意味します。
外交は維新の「後」に始まったのではありません。新政府が新政府として成立していく過程そのものに、外国からの承認が組み込まれていました。
イギリスとフランスも、同じ立場ではなかった
幕末の列強を一括して「欧米諸国」と呼ぶと、それぞれの立場の違いが見えにくくなります。
外務省によると、英国公使ハリー・パークスは戊辰戦争中に列国の局外中立を提唱し、1868年5月22日、明治天皇へヴィクトリア女王からの信任状を奉呈しました。これは英国が列国に先がけて明治新政府を承認したことを意味する行動でした。
一方、前任のフランス公使レオン・ロッシュは徳川幕府を積極的に支援し、横須賀製鉄所や軍事顧問の招聘にも関与していました。しかし幕府の崩壊後、フランス政府も新政府を正統政府として扱う方向へ転じ、1868年には新任公使ウートレーの信任状が明治政府へ提出されます。
国内の政権交代は、同時に外国が「日本の政府は誰か」を判断し直す外交上の政権交代でもありました。
五箇条の御誓文は、戦争中に示された
1868年4月6日(旧暦3月14日)、五箇条の御誓文が発せられました。
国立公文書館は、これを明治新政府の基本方針を示したものと説明しています。よく知られる「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ」に加え、最後には「智識ヲ世界ニ求メ」という方針が掲げられました。
ここで注意したいのは、御誓文が「維新が完了した後」の理念文ではないことです。鳥羽・伏見の戦いからまだ数か月で、戊辰戦争は続いていました。
新政府は、軍事的に旧勢力と戦いながら、その横で政治の原則や海外との向き合い方を言葉にしていたのです。
江戸は、戦場になる可能性を残したまま東京へ変わった
1868年の都市史も、政権交代と切り離せません。
江戸城は1868年5月3日(旧暦4月11日)に新政府へ明け渡されました。その後、9月3日(旧暦7月17日)に「江戸を東京と称す」との詔書が出され、同日に東京府が設置されます。
国立公文書館の史料では、江戸は「東国第一の大鎮」と位置づけられ、天皇が直接赴いて政治を行うべき場所として東京と定められました。
さらに11月26日(旧暦10月13日)、明治天皇が江戸城西の丸へ到着すると、江戸城は行幸中の皇居とされ、「東京城」と改称されます。
「江戸から東京へ」は単なる地名変更ではなく、政治の中心そのものを再配置する作業でした。
同じ1868年、アメリカでは「誰が市民か」が憲法に書き込まれた
同じ年、アメリカは南北戦争後の「再建(Reconstruction)」の最中にありました。
米国国立公文書館によると、1868年7月9日に合衆国憲法第14修正が批准されました。米国で生まれた、または帰化した人を市民とし、適正な法手続や法の平等な保護を掲げた重要な憲法修正です。
ただし、条文が成立したことで差別がただちに解消されたわけではありません。国立公文書館自身も、その権利の実現にはその後の長い闘いが必要だったことを説明しています。
日本の五箇条の御誓文と米国憲法第14修正を同じ制度として比較することはできません。それでも、内戦・政変の後に「国家の基本ルールをどう書き直すか」が大きな課題になっていたという同時代性は見えてきます。
スペインでも同じ年、王政が大きく揺れた
1868年9月、スペインでも政治体制を揺るがす革命が起こります。
スペイン下院の公式史料によると、「栄光革命(La Gloriosa)」は9月18日にカディスで海軍と軍の蜂起から始まり、イサベル2世は9月30日にフランスへ亡命しました。その後、臨時政府と制憲議会を経て新しい憲法制定へ進みます。
日本の明治維新、米国の再建、スペインの革命は、それぞれ原因も制度も社会背景も異なります。
並べる意味があるのは、「世界中で同じ革命が起きた」と言うためではありません。1868年という一年に、複数の社会が戦争や政変の後で政治秩序を作り直していたことを見るためです。
1868年を一枚で見ると、何が変わったのか
| 軸 | 1868年の変化 |
|---|---|
| 軍事 | 鳥羽・伏見から戊辰戦争へ。旧幕府勢力との戦争は翌1869年まで続く。 |
| 外交 | 新政府が外交主権を宣言し、英国・フランスなどから正統政府として承認されていく。 |
| 制度 | 五箇条の御誓文を示し、明治と改元。一世一元の制へ。 |
| 都市 | 江戸を東京とし、天皇の行幸とともに政治の中心を東へ移していく。 |
| 世界 | 米国では第14修正、スペインでは革命。各地で国家の制度や正統性が問い直される。 |
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1868年、日本では何が起きていたのでしょうか。
それを「明治維新」と一言でまとめることはできます。しかし一年の中身を見ると、実際には戦争、外交承認、政治理念、改元、都市の再編が同時に進んでいたことが分かります。
明治政府は最初から完成した国家として登場したのではありません。戦いながら、外国と交渉しながら、統治のルールと政治の中心を作り直していきました。
そして同じ1868年、アメリカやスペインでも内戦・革命の後の政治秩序が組み替えられていました。直接の因果関係ではなく、「国家を作り直す時代」が世界の複数地域で重なっていたと見ると、明治維新の位置が少し違って見えてきます。